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服部徹也「文学の科学への欲望――成仿吾の漱石『文学論』受容における〈微分〉――」の紹介

服部徹也(2017)「文学の科学への欲望――成仿吾の漱石『文学論』受容における〈微分〉――」『跨境 日本語文学研究』 第4号、123-140頁。


著者は自身のリサーチマップのページで、以下のようにこの論文を要約しています。

1920年代前半の上海で、成仿吾は夏目漱石『文学論』の概念と数学の〈微分〉とを組み合わせた中国語の評論を書き当時の文壇を痛烈に批判した。成が留学した1914-21年の日本は漱石称揚の時期であり、田邊元が日本にヘルマン・コーエンの、〈微分〉を援用した議論を紹介していた頃でもあった。成仿吾の〈微分〉の用い方を題材に、「文学理論」に言語や学問や国の境界を越えて生成する「文学の科学」を求める欲望の現れが関わることを論じた。

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ここではさらに、論文の章ごとに詳しく内容を紹介したいと思います。

1 はじめに

引用が国や領域をまたぎ新たな理論を形成することをキュセが報告したように、日本文学・理論の生成過程の理解のためには、国内だけでなく諸外国との関係にも目を向ける必要があります。中国文化では、たとえば魯迅や周作人が日本語を介して学知を取り入れています。こういったことを理解する時に劉為民は科学受容と表象の関係を重視しました。このような背景をふまえ服部は、魯迅の後進世代で日本留学経験のある成仿吾に注目します。成仿吾は夏目漱石『文学論』と〈微分〉の概念の接合を試みています。この点から服部は、成仿吾の活動は学問領域を超えた文学理論の編成過程を考えるのに格好な材料だと考え、『文学論』と〈微分〉の接合が議論に重要だと判断された条件や欲望を論じていきたいと述べます。ちなみに、以降で服部はこの論文において微分を〈微分〉と表す理由を、それは一般的な微分の使用法ではなく成仿吾独自のものだから、と述べています。

2 成仿吾の『文学論』受容と変容――方長安の先行研究

成仿吾の『文学論』と〈微分〉の接合について考察した、方長安の論考のまとめがなされた章です。この論考は、成仿吾が『文学論』を引用したことは書かず(これについては「1」章で既に触れていますが)、しかしその内容とほぼ同じことを〈微分〉や幾何学の図形を用いて論考を書いた、と論証したものです。服部はこれを重要な参考文献だとしつつも、(その論証に重きを置いたものだから?)自身が「1」章で述べた問題意識、すなわち『文学論』を〈微分〉に結びつける成仿吾の思想的な問題についてはあまり論じられていないことを指摘します。

3 「『残春』の批評」と「詩の防御戦」――〈微分〉と図示のレトリック

長安の論考では成仿吾の「詩の防御線」を主に扱い、「『残春』の批評」があまり扱われていないことを服部は指摘します。当時の心理学における欲望ともいえるものを参照しつつ、以上の2つの論考を関連付けて成仿吾が〈微分〉を用いた理由を考察したのが、この章になります。成仿吾は物語の進行と情緒とを相関するものとして、「『残春』の批評」ではそれを図示しています。そしてこの情緒の増減を表すのに「詩の防御線」では〈微分〉が用いられていると服部は指摘します。こういった文学作品における心理的作用を図示する試みは漱石にも見られ、漱石が心理学に関心があったのは周知のとおりであります。このような「心理の可視化」といった欲望は、科学的な手法で心理を扱おうとする当時の近代心理学で広く見られるものです。すなわち、漱石だけでなく成仿吾も「心理の可視化」の影響化にある、と服部は主張します。

4 日本留学者、成仿吾と大正教養主義における科学

服部は前章の最後で、依然として成仿吾が用いたのはなぜ〈微分〉であったのか、といった問題が残ると述べます。そこで服部は、成仿吾が日本に留学していた1910〜1921年の時期における科学論に注目します。当時の日本における科学論では、微分をはじめ数学や物理学の理論を援用して議論を行った田邊元が論客として注目されていました。そして、成仿吾がこういった議論に触れていた可能性を示唆して、ならば『文学論』と〈微分〉を結びつけたことは全くの独創とは言えないと服部は述べます。その上で服部は、以上の科学論の議論や漱石の活動などの「岩波=漱石文化」と対応したものとして成仿吾の議論を解釈する必要性を訴えます。

5 漱石/漱石受容における文学の科学への欲望

この章では、漱石自身における「文学の科学」への欲望なるものを、他者の漱石議論なども踏まえて浮かび上がらせています。漱石は、進化論を援用して文化を理解したり優劣をつけたりしようとするような社会ダーウィニズムに代表される科学的立場やキリスト教普遍主義など、普遍性の基準から特定の文化を考えることに批判的でした。にも関わらず漱石は、文学の批評や歴史は科学であると述べており、先行研究などでもこの矛盾的な考えは指摘されています。ただこういったことについて漱石は、1910年には少なくとも自覚的になっており、「出来るか出来ぬかは勿論別問題」と留保しています。それでもその後の漱石は、「自らの固有の趣味判断体系」を「知」によって他者に理解させようとする態度を求めます。この態度について漱石は、「矛盾を理路を辿つて調和する力のないのを残念に思う」と述べ、この議論を完成させることなく1916年に逝去されます。ここに服部は、漱石がなし得ることのできなかった文学研究への科学援用、すなわち「文学の科学」への欲望なるものを見出だします。

6 おわりに

長安は、成仿吾が漱石の意図でなく自身の用途に引きつけて『文学論』を再解釈したことに注目している、と服部は指摘します。それは、日本文学の盲従的受容などや趣味判断、慣習から文学を解放するためのものであり、その実現のための力として「文学の科学」を成仿吾は欲望したのではないか、と服部は考えます。その後、この欲望が伝播するように中国において『文学論』は権威付けられ名を明らかにされながら引用されていくことになるそうです。さらにその後、1928年から成仿吾は中国共産党に入党し文芸批評から離れ、その活動の場だった創造社はほかの中心人物も脱退していくことで1929年に閉鎖されます。同時期、別の「文学の科学」への欲望ともいえるマルクス主義藝術理論が上海の文芸界を席巻することとなります。この「文学の科学」をはじめとした分野横断的な理論生成の系譜の研究はまだ手つかずのところが多いとこを指摘した上で服部は、研究としても領域横断的に進める必要性を訴えて、この論考は閉じられます。