物語文化と科学文化

ポピュラーカルチャー、科学文化論、文学研究などについて

『君の膵臓をたべたい』論の発表告知

今月、2018年8月11日に私は、日本科学史学会生物学史分科会で、住野よる『君の膵臓をたべたい』に関する発表をします。どなたでも参加可能です。ただ、参加希望の方は、資料などの事前準備との関係もありまして、以下詳細に貼り付けましたリンクより参加登録をして頂けましたら幸いです。

・日本科学史学会生物学史分科会主催「生物学史研究会」
・演者:西貝怜(白百合女子大学言語・文学研究センター研究員)
・タイトル:「住野よる『君の膵臓をたべたい』論――末期患者との死別をめぐる死生学的問題への文学研究からのアプローチ――」
・コメンテーター:髙橋博史(白百合女子大学文学部国語国文学科教授)
・司会:奥村大介(明治大学ほか非常勤講師)
・日時:2018年8月11日(土) 15:00~
・場所:東京大学駒場キャンパス14号館3階308号室
・学会による要旨なども掲載されている正式な告知ページ。
http://www.ns.kogakuin.ac.jp/~ft12153/hisbio/meeting_j.htm
・お申込みは以下よりお願い申し上げます。https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdDq0O405o_y1y18iaIgs7diFb9Iartt_AGDHzof3oL8D3X1Q/viewform
ツイッターでの告知。拡散にご協力頂けましたら幸いです。
https://twitter.com/possible_world/status/1022485634076692480

服部徹也「文学の科学への欲望――成仿吾の漱石『文学論』受容における〈微分〉――」の紹介

服部徹也(2017)「文学の科学への欲望――成仿吾の漱石『文学論』受容における〈微分〉――」『跨境 日本語文学研究』 第4号、123-140頁。


著者は自身のリサーチマップのページで、以下のようにこの論文を要約しています。

1920年代前半の上海で、成仿吾は夏目漱石『文学論』の概念と数学の〈微分〉とを組み合わせた中国語の評論を書き当時の文壇を痛烈に批判した。成が留学した1914-21年の日本は漱石称揚の時期であり、田邊元が日本にヘルマン・コーエンの、〈微分〉を援用した議論を紹介していた頃でもあった。成仿吾の〈微分〉の用い方を題材に、「文学理論」に言語や学問や国の境界を越えて生成する「文学の科学」を求める欲望の現れが関わることを論じた。

researchmap.jp


ここではさらに、論文の章ごとに詳しく内容を紹介したいと思います。

1 はじめに

引用が国や領域をまたぎ新たな理論を形成することをキュセが報告したように、日本文学・理論の生成過程の理解のためには、国内だけでなく諸外国との関係にも目を向ける必要があります。中国文化では、たとえば魯迅や周作人が日本語を介して学知を取り入れています。こういったことを理解する時に劉為民は科学受容と表象の関係を重視しました。このような背景をふまえ服部は、魯迅の後進世代で日本留学経験のある成仿吾に注目します。成仿吾は夏目漱石『文学論』と〈微分〉の概念の接合を試みています。この点から服部は、成仿吾の活動は学問領域を超えた文学理論の編成過程を考えるのに格好な材料だと考え、『文学論』と〈微分〉の接合が議論に重要だと判断された条件や欲望を論じていきたいと述べます。ちなみに、以降で服部はこの論文において微分を〈微分〉と表す理由を、それは一般的な微分の使用法ではなく成仿吾独自のものだから、と述べています。

2 成仿吾の『文学論』受容と変容――方長安の先行研究

成仿吾の『文学論』と〈微分〉の接合について考察した、方長安の論考のまとめがなされた章です。この論考は、成仿吾が『文学論』を引用したことは書かず(これについては「1」章で既に触れていますが)、しかしその内容とほぼ同じことを〈微分〉や幾何学の図形を用いて論考を書いた、と論証したものです。服部はこれを重要な参考文献だとしつつも、(その論証に重きを置いたものだから?)自身が「1」章で述べた問題意識、すなわち『文学論』を〈微分〉に結びつける成仿吾の思想的な問題についてはあまり論じられていないことを指摘します。

3 「『残春』の批評」と「詩の防御戦」――〈微分〉と図示のレトリック

長安の論考では成仿吾の「詩の防御線」を主に扱い、「『残春』の批評」があまり扱われていないことを服部は指摘します。当時の心理学における欲望ともいえるものを参照しつつ、以上の2つの論考を関連付けて成仿吾が〈微分〉を用いた理由を考察したのが、この章になります。成仿吾は物語の進行と情緒とを相関するものとして、「『残春』の批評」ではそれを図示しています。そしてこの情緒の増減を表すのに「詩の防御線」では〈微分〉が用いられていると服部は指摘します。こういった文学作品における心理的作用を図示する試みは漱石にも見られ、漱石が心理学に関心があったのは周知のとおりであります。このような「心理の可視化」といった欲望は、科学的な手法で心理を扱おうとする当時の近代心理学で広く見られるものです。すなわち、漱石だけでなく成仿吾も「心理の可視化」の影響化にある、と服部は主張します。

4 日本留学者、成仿吾と大正教養主義における科学

服部は前章の最後で、依然として成仿吾が用いたのはなぜ〈微分〉であったのか、といった問題が残ると述べます。そこで服部は、成仿吾が日本に留学していた1910〜1921年の時期における科学論に注目します。当時の日本における科学論では、微分をはじめ数学や物理学の理論を援用して議論を行った田邊元が論客として注目されていました。そして、成仿吾がこういった議論に触れていた可能性を示唆して、ならば『文学論』と〈微分〉を結びつけたことは全くの独創とは言えないと服部は述べます。その上で服部は、以上の科学論の議論や漱石の活動などの「岩波=漱石文化」と対応したものとして成仿吾の議論を解釈する必要性を訴えます。

5 漱石/漱石受容における文学の科学への欲望

この章では、漱石自身における「文学の科学」への欲望なるものを、他者の漱石議論なども踏まえて浮かび上がらせています。漱石は、進化論を援用して文化を理解したり優劣をつけたりしようとするような社会ダーウィニズムに代表される科学的立場やキリスト教普遍主義など、普遍性の基準から特定の文化を考えることに批判的でした。にも関わらず漱石は、文学の批評や歴史は科学であると述べており、先行研究などでもこの矛盾的な考えは指摘されています。ただこういったことについて漱石は、1910年には少なくとも自覚的になっており、「出来るか出来ぬかは勿論別問題」と留保しています。それでもその後の漱石は、「自らの固有の趣味判断体系」を「知」によって他者に理解させようとする態度を求めます。この態度について漱石は、「矛盾を理路を辿つて調和する力のないのを残念に思う」と述べ、この議論を完成させることなく1916年に逝去されます。ここに服部は、漱石がなし得ることのできなかった文学研究への科学援用、すなわち「文学の科学」への欲望なるものを見出だします。

6 おわりに

長安は、成仿吾が漱石の意図でなく自身の用途に引きつけて『文学論』を再解釈したことに注目している、と服部は指摘します。それは、日本文学の盲従的受容などや趣味判断、慣習から文学を解放するためのものであり、その実現のための力として「文学の科学」を成仿吾は欲望したのではないか、と服部は考えます。その後、この欲望が伝播するように中国において『文学論』は権威付けられ名を明らかにされながら引用されていくことになるそうです。さらにその後、1928年から成仿吾は中国共産党に入党し文芸批評から離れ、その活動の場だった創造社はほかの中心人物も脱退していくことで1929年に閉鎖されます。同時期、別の「文学の科学」への欲望ともいえるマルクス主義藝術理論が上海の文芸界を席巻することとなります。この「文学の科学」をはじめとした分野横断的な理論生成の系譜の研究はまだ手つかずのところが多いとこを指摘した上で服部は、研究としても領域横断的に進める必要性を訴えて、この論考は閉じられます。

タイムトラベルの倫理

もしタイムトラベルが可能ならばどういった倫理的な問題が起こりうるか…まず想起するのは過去の改変でしょうか。海外では古くにPaul Anderson, Guardians of Time, 1960*1が、日本でもドラえもんから榎本ナリコ『時間の歩き方』まで、時空警察やタイムパトロールなどと呼ばれる過去の改変を取り締まる組織は古今東西の様々な作品で描かれています。

 

時間の歩き方 I (眠れぬ夜の奇妙な話コミックス)

時間の歩き方 I (眠れぬ夜の奇妙な話コミックス)

 

 

倉薗紀彦『魔法行商人ロマ』3巻所収「メルーダの砂時計」や細田守監督アニメ映画『時をかける少女』などでも、自身の事情で過去を改変してしまったことで本来は受けない不利益を被ってしまう人がでてきてしまうことが描かれました。このように、タイムパトロールなどの過去の改変を取り締まる組織や法が描かれていなくても、基本的に過去の改変は良くないこととして描かれるようです。

 

魔法行商人ロマ 3 (少年サンデーコミックス)

魔法行商人ロマ 3 (少年サンデーコミックス)

 

 

しかし、えすのサカエ未来日記』13巻では過去に行った人が、現代(その過去から見ての未来である)では病気に苦しむ子供の親に早めに診療を受ければ治るかもしれないと伝え、その子供は早期に治療を受けて病気を克服します*2。『魔法行商人ロマ』や『時をかける少女』でも一度改変した過去をもう一度不利益をこうむった人のために改変(元に戻そうと)するように、元に戻したり利他的で他に不利益がこうむらないようないいことだったりする改変の場合は、倫理的に描かれることがあるようです。

 

未来日記 (12) (角川コミックス・エース 129-19)

未来日記 (12) (角川コミックス・エース 129-19)

 

 

反対に、このままでは確定してしまう未来の改変はどうでしょうか。 これは当然といいますか…未来をよきものにしようという行動が道義に反しているというように描かれることは少ないようです。ただ、ビデオゲームクロノクロス』では改変された未来の悲痛な声、という興味深い描写が見られます。ビデオゲームクロノトリガー』はタイムトラベルを駆使して荒廃した未来を明るい世界に変えました。しかし、続編である『クロノクロス』では、その改変されてなかったことにされた荒廃した未来が、その明るく改変された世界へ報復しに来るのです。「あったかもしれない幸福」に同情的な描写はありつつも、可能世界になった荒廃した世界は打倒されます。ある幸福を掴んだがために、ほかの幸福は棄却されることが非難される…斉藤環氏の「まどか☆エチカ、あるいはキャラの倫理」*3末尾で、ループしつづけた世界によって概念になったまどかはその存在を忘れさられなければならないと指摘した上で「そう、倫理が必ず代償を伴うという真理は、現実以上に虚構において厳密に要請されるのだから」と述べたように…そこまで高い善性を要求するのはあんまりだと言えないでしょうか。

 

クロノ・クロス

クロノ・クロス

 

 

以上で書いたタイムトラベルの倫理的問題は、『文理シナジー』誌に掲載された拙著「『魔法少女まどか☆マギカ』における希望についてタイムトラベルの倫理と時間的展望からの考察」が元になっています。論文では取り上げなかった作品もこの記事では取り上げたり、逆に論文ではループものにも触れていたり(そもそもまどマギ論ですが)します。オンラインでの公開は出来ませんが、以下にCiNiiページのリンクを貼っておきますので、ご笑覧頂ければ幸甚で御座います。

 


CiNii 論文 -  『魔法少女まどか☆マギカ』における希望についてタイムトラベルの倫理と時間的展望からの考察

 

*1:1988年にTor bookから発売されたものでは頭にTheが付いています。

*2:アニメ版のほうがこの描写は詳細に描かれています

*3:初出は『ユリイカ』2011年11月臨時増刊号ですが、最近『猫はなぜ二次元に対抗できる唯一の三次元なのか』にも収められました

論文「恋愛関係の進展に及ぼす告白の言語的方策の効果」

樋口匡貴・磯部真弓・戸塚唯氏・深田博己(2001)「恋愛関係の進展に及ぼす告白の言語的方策の効果」『広島大学心理学研究』Vol.1, 53-68. 

13年前という心理学では結構古い論文ですが、心理学に興味がある人が好きそうなテーマの論文ですね。タイトルの通り、恋愛関係を進展させようとする人の告白方法における言語的方策の分類と印象や、性別、状況(両想いか、片想いかなど)との関係などを調査した論文です。以下のリンクからpdfとして論文をDLできます。

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/0001952

 

告白の方法は以下の三つに分類されました。

  • 単純型:「好きです、付き合って下さい」のような単純なタイプ
  • 懇願型:「一生のお願い、付き合ってください」「貴方がいないとダメ、付き合ってください」など相手の必要性を強調するなど、交際を懇願するタイプ
  • 理屈型:「あなたと話すと幸せになる。付き合って下さい」など、相手といると自分がどんな感情になるか、相手の魅力を説明するなどのタイプ

 

そして、それぞれの告白方法のタイプがどのような印象を与えやすいかは以下の通りでした。

  • 単純型:自分の好意が伝わりやすく、好感を得やすい
  • 懇願型:自分を犠牲にして相手を優先させるなどの印象を与え、相手に負担になりやすい、強引と感じられやすい. 
  • 理屈型:甘い言葉は信用されにくく、強引と感じられやすい

 

関係の進展に最も効果的であったのは単純型で、「好感がもてる」ということが告白の成否には最も重要でした。また、両思いでなくても好きな人がいる方が告白を受け入れやすい傾向にありました。これらは男女問わず見られる傾向でした。ただ、女性よりも男性の方が、懇願型の告白に良いイメージを持ちやすい傾向がありました。

 

奥村大介「ささめく物質――物活論について」を読んで

奥村大介(2013)「ささめく物質――物活論について」『現代思想』Vol.42(1), 116-129.

現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ

現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ

奥村氏の「ささめく物質――物活論について」(以下、物活論)は、著者自身が最後の章「物たちのささめき」で論攷の要所をまとめています。また、ツイッターでのユーザー名、あさみれい氏が「物活論」について既に評しています(以下、リンクから読むことが出来る)。
http://www.twitlonger.com/show/n_1rvaseg

そこでここでは「物活論」についての内容紹介はほどほどにして、奥村氏の他の作品と「物活論」の関係を書きたいと思います。そのため、この記事は「物活論」がどのような論文かを知るためというよりも、その論文を読んで氏の研究に興味を持った人のための「奥村氏の研究ガイド」というような趣向が強いものになると思われます。

「物活論」は3・11における物質と人の関わり方への疑問から始まります。その後、唯物論からヘッケルの物活論まで、物質の生命性についてのこれまでの思想を概観し、無生物と言えるものの生物性や生物と無生物の境界を考察しています。その上で、現代においても物活論的態度が有意義であること、物質と人の良い関係のための3・11以降の現代の詩学の重要性を述べます。

「物活論」も奥村氏の科学文化論的作品の一つと言えましょう。そもそも氏は「日本におけるフランス科学認識論――脱領域の知性のために」という論攷の中で、日本における科学認識論について言及した上で、これからの科学に関する人文学研究の一つの態度として科学文化論を推奨しました。ここから、これまでの科学に対する態度についての思想などから現代の詩学を考えた「物活論」にも、科学史の学際的な発展を望む氏の態度が見られます。

また、「石の詩学・序説――鉱物文化論のために」では、「物活論」同様にヘッケルなどにも触れているばかりか、ミシュレの言から「精神と物質の幸福な関わり」の重要性が述べられています。「物活論」での主題とも言える「物質と人の幸福な関係」は、この論攷からきていると考えられましょう。

「重力の観念史」では様々な重力観を概観した上で、重力を克服しようとする現代科学の態度について批判的考察の必要性を述べています。「日本におけるフランス科学認識論――脱領域の知性のために」以降、奥村氏はこの「重力の観念史」や「物活論」にも見られるように、科学思想史から(あるいはそこから発展させて)現代を問うという態度をとっています。その中でも特に氏は、これまで挙げてきた論攷や「科学が詩になるとき――石原あえか『科学する詩人 ゲーテ』[慶應義塾大学出版会、2010年]書評」などを見る限り、「詩と科学」の関係を重視しているように思われます。

以上から「物活論」は、まさにこれまでの奥村氏の論攷のエッセンスが詰まったものになっていると言えます。

最後に、奥村氏のこれまでの作品情報が公開されており、いくつかの論攷はDLが可能な氏のリサーチマップへのリンクを以下に貼っておきます。

奥村大介 - 研究者 - ReaD & Researchmap